息子の人生観を大きく変えた!山田裕貴の父・山田和利は知る人ぞ知る元・プロ野球選手

どこか悟ったような雰囲気と人懐っこさを持ち合わせている、国民的イケメン俳優・山田裕貴さん。

そんな山田裕貴さんの父は、元プロ野球選手で引退後は球団のコーチや解説者をつとめた経験もある「山田和利」さんなんです。

今回は、山田裕貴さんの父である山田和利さんの経歴・山田裕貴さんとのエピソードについて調査してみました!

ぜひ、ご覧ください。

山田裕貴の父・山田和利のプロフィール

まずはプロフィールから

画像出典元:日刊スポーツ

  • 本名:山田和利(やまだ かずとし)
  • 生年月日:1965年6月3日
  • 年齢:57歳(2023年現在)
  • 身長・体重:178㎝・82㎏
  • 出身地:愛知県名古屋市中村区
  • 学歴:東邦高等学校

山田和利の学生時代~プロ野球選手としての活躍~引退後までの変遷

学生時代の様子を見ていきましょう。

山田和利さんは地元の名古屋市立豊生中学校に通っていたそうです。(小学校がどこなのかは明らかになっていません)

中学校卒業後は、野球の強豪校として有名な私立・東邦高校に進学。

画像出典元:みんなの高校情報 

東邦高校はどんな学校なのか

東邦高校は愛知県名古屋市にある男女共学の私立高校。通称名は「東邦」。

 

偏差値は49~61程度。

 

部活動は文化部・運動部ともに盛んで、特に野球部は「春の東邦」の異名を持つ愛知県屈指の野球の名門校

 

硬式野球部は、甲子園全国大会【春:30回、夏:17回、春夏合計:47回】に出場し、【優勝:春5回、準優勝:春2回、夏1回】

 

中京大中京、愛工大名電、享栄高校と並ぶ「愛知私学4強」のひとつに挙げられるほどの強豪校と言われています。

直近では2019年に激闘を制し、甲子園優勝を果たしています。

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ちなみに、息子である山田裕貴さんも東邦高校を卒業されています。

持ち前の俊足と統率力を買われ、1983年18歳の時に「中日ドラゴンズ」に入団

高校進学後は、甲子園出場を目指し、野球部の練習に力を入れていました。

1982年には、春夏共に甲子園に連続出場し、全国ベスト4位高校2年夏は県大会準決勝敗退同年秋は愛知県3位から東海大会ベスト8位に残るものの、1983年の選抜出場を逃しています。

山田和利さんの時代は、中京高校が強豪校として特に有名だったようです。

画像出典元:Twitter 

後に、100メートル走11秒台の俊足とチームの主将を務めた高い統率力が評価され、1983年の18歳の時にドラフト会議で地元球団の「中日ドラゴンズ」から4位指名を受け入団します。

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ドラフト会議は、1983年11月22日に行われました。

この年の、中日ドラゴンズにスカウトされた選手は次の6人となっています。

指名順位 選手名 出身校 ポジション
1位 藤王康晴 享栄高校 内野手
2位 仁村徹 東洋大学 投手
3位 三浦将明 横浜商業高校 投手
4位 山田和利 東邦高校 内野手
5位 山本昌弘 日本大学藤沢高校 投手
6位 清水治美 日本通運 投手

画像出典元:Monbre

中日ドラゴンズ以外の同期には、以下の選手がいるようです。

池山隆寛(ヤクルト)

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小早川毅彦(広島東洋カープ)

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水野雄仁(読売ジャイアンツ)

画像出典元:週刊ベースボールONLINE




入団当時は不遇だった中日ドラゴンズ時代

山田和利選手は、中日ドラゴンズに入団当初は活躍の場をなかなか得られなかったようです。

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入団当時は同期の高卒ルーキーである藤王康晴選手が夏に一軍昇格しましたが、山田和利選手はファーム(控え選手で構成されるチーム)で体づくりや育成からスタートしました。

2年間の間、一軍として出場する機会は全くありませんでした。

しかし、その3年後の1986年の5月に代打としてプロ初出場を果たします。

これをきっかけにどんどん活躍するのかと思われましたが、この年の出場はこの1打席で終わっています。


1987年には、12試合に出場しています。

シーズンが残り10試合を切った終盤に落合博満に代わり、4試合連続出場でサード・8番として選抜出場した実績があるようです。

山田和利選手の本来のポジションは遊撃手(ショート)でしたが、・中日は以下の3人で内野のレギュラーを固定したため、なかなか一軍に定着することが難しかったようです。

落合博光(サード)

画像出典元:中日スポーツ・東京中日スポーツ 

同年にドラフトで入団したスーパールーキー・立浪和義(ショート)

画像出典元:Twitter 

宇野勝(セカンド)

画像出典元:産経新聞

このため、「山田和利選手の出番はなくなる」と周囲からは言われていたそうです。


しかしその予想に反し、山田和利選手は1988年に82試合という多くの試合に出場しました。

落合博光・宇野勝選手は共に30歳を超えていたこともあり、その穴埋めとして試合後半の守備固めで様々なポジションで貴重な活躍をしたそうです。

1試合だけ外野手として出場するなど、チーム内のユーティリティープレイヤー(野球などのチームスポーツで複数のポジションをこなす選手)としてのポジションを手にしました。

また、持ち味である俊足を生かし、チームトップとなる3塁打・チーム3位の犠牲打・10盗塁・2本塁打・打率268と、打撃面でもチームに多大な貢献をしています。

この年に中日はリーグ優勝し、山田和利選手は初めてチームとして頂点に立つ喜びを味わったそうです。

ここからチームの中で存在感を強めていくのかと思われましたが、1989年には1軍出場なしと言う結果に終わっているようです。

方向転換が功を奏した広島カープ時代

1989年には、2対2のトレードで「広島東洋カープ」に移籍しました。

画像出典元:デイリー 

移籍初年度は6試合出場するのみで、チームには全く貢献できなかったようです。

1990年も、出場数29試合と不本意な結果に終わっています。

カープには山田和利選手と同じ遊撃手を務める、スピードスター・野村健次郎選手

画像出典元:Twitter

三塁手の江藤智

画像出典元:Twitter 

などの強力なライバルがいます。

そんな状況の中で、山本和利選手は自身のスタイルを「強打の内野手」に変えるという活路を見出しました。

1992年には、2塁手のレギュラー・正田耕三が手首を故障すると、山田和利選手がスタメンを務めることになります。

画像出典元:週刊ベースボールONLINE 

この年は93試合に出場。成績は8本塁打・29打点・打率282と、新たなスタイルでの活躍を披露しました。

1993・1994年には、内野手が万全だったこともあり出場の機会は減ったそうですが、1995年には1塁手のレギュラー・メディーナ選手の故障の穴埋めをする働きをしています。(メディーナ選手の画像は見つかりませんでした)

この年は山田和利選手の中で最多となる94試合に出場し、12本塁打・53打点・打率270という活躍をおさめ、その年の球団チーム順位2位という結果に貢献しました。




古巣である中日ドラゴンズに戻りプロ野球選手としての幕を閉じる

1996年に星野仙一監督が復帰すると、山田和利選手は以前在籍した中日ドラゴンズの選手として最後の選手生活を送ります。

画像出典元:文春オンライン 

背番号も「7」を与えられ多くの期待を寄せられましたが、故障が原因で一軍出場回数はゼロという本人もやりきれない結果に終わっています。。

これを機に、山田和利選手は同年限りでの引退を決意します。年齢としては31歳の時になります。

プロ引退後は、指導者としての道を目指すことにしたそうです。


引退後はコーチとして選手の育成・球団に尽力する

選手引退後はそのまま中日に残り、1997年から2004年までの間は様々なポジションのコーチを務めます。(中日コーチ時代の画像は見つかりませんでした)

  • 1997年: 二軍打撃コーチ
  • 1998年:一軍内野守備・走塁コーチ
  • 1999年~2001年:一軍打撃コーチ
  • 2002年~2003年:二軍内野守備・走塁コーチ
  • 2004年:二軍内野手総合チーフコーチ

2005年からは「フロント入り」という、球団の運営にかかわる仕事に携わる時期もあったそうです。

ユーティリティープレイヤーとして活躍した、山田和利選手の器用さがここで役立ったんでしょうね。

 画像出典元:日刊スポーツ

何でもこなせる山田和利選手はその後も球団に残り続け

  • 2011年:広島カープの二軍の守備・走塁コーチ
  • 2012年:広島カープの球団編成を担当
  • 2015年:再び広島カープ二軍の守備・走塁コーチ

という実績を残しています。

その他にも、野球解説者の仕事をしていたこともあるようです。

山田和利選手は、プロ引退後も多方面から重宝される存在だったようですね。

山田和利の現在の様子は不明

山田和利選手が現在何をしているのかは、明らかになっていないようです。

2021年11月3日広島カープは、山田和利2軍内野守備・走塁コーチと沢崎俊和3軍投手育成強化担当(47)が退団することを発表しています。

画像出典元:Twitter 

その後の山田和利選手に関する情報は、何も見つかりませんでした。




山田和利選手の最高年俸は2070万円

ここでは、中日ドラゴンズ入団からプロ引退までの山田和利選手の年俸を見ていきましょう。

画像出典元:野球丼 

プロとして中日に入団したものの、日の目を見ることがなかった1986年~1987年は推定年俸370万~400万円

その後は徐々に活躍の場面が増えていき、右肩上がりで年俸を伸ばしています。

山田和利選手の推定最高年俸は2070万円のようです。

中日在籍時のチームメイトだった落合博満選手は、山田和利選手の入団一年後の1987年から一億円を超える年俸を得ています。

また、現在のプロ野球選手の平均年俸は、およそ4000万円と言われています。

時代も違いますし当時の年俸の中央値も分かりませんが、山田利一選手の年俸は低いと評価する声が多いようです。

引退後の年収ですが、コーチの年収の相場は1000万~1500万円と言われています。

解説者の年収は、試合数に左右されるので一概にいくらとは言えませんが、1試合約5万~10万円と言われているそうです。

山田裕貴と父・山田和利のエピソード

ここからは、山田裕貴さんと父・山田和利さんの親子エピソードを見ていきましょう。

画像出典元:Instagram 

テレビで活躍する父の姿に感銘を受け「プロを目指そう」と思い、山田裕貴さんは小学校3年生~中学3年生まで硬式野球の強豪チームに所属していたそうです。

画像出典元:Instagram

在籍時はレギュラーにはなれなかったそうですが、粒ぞろいのチームに所属していたことを思わせるピッチング動画をInstagramに投稿しています。

画像出典元:Instagram 

球の最高速度は142㎞/hなんだとか!

140㎞/hが「超高校級」と言われているそうなので、さすが元・プロ野球選手の息子って感じですよね。


中学以降も野球を続けると思われましたが、中学3年生の時にプロ野球選手の夢を諦める決断をしています。

「練習を続けるうちに、体格やセンス関して父にとてもかなわないと思った」

 

「周囲からプロ野球選手の息子として見られるのがプレッシャーだった。途中からなんのために野球をしているのかが分からなくなり、練習を全然頑張れなくなった」

という理由から、野球をやめたそうです。

このことは、山田裕貴さんの人生の中で最大の挫折であり、自分の弱さを突き付けられた出来事だそうです。

中学卒業後は父と同じ野球の強豪校・東邦高校に進学し、野球部ではなくバレーボール部に所属しています。

画像出典元:芸能Sumarry 




父・山田和利の金言が山田裕貴の俳優人生を支えている

画像出典元:Instagram 

野球の道を諦めた山田裕貴さんですが、その後父から

「俺はお前に野球をやれとは言ってない。でも、自分がやると決めたことをどうして最後まで続けなかったんだ」

と言われたといいます。

言われた当時は、この言葉の意味にピンとこなかったそうです。

しかし、高校3年生の時に東邦高校が甲子園に出場し、中学時代に野球の練習を共にした仲間が球場で戦っている姿を見たときに

「俺、何やってたんだろう・・・あの時続けていれば自分もあの舞台に立てたのかもしれないのに」

と野球をやめたことを激しく後悔し、試合開始のサイレンが鳴る前から一人でとめどなく涙を流していたそうです。

その時にやっと、父から言われた言葉の意味を理解し

「次挑戦することは、死ぬまで絶対続けよう」

と心に決め、俳優の道へと進みんだそうです。

父の言葉が、山田裕貴さんの人生観を大きく変えたんですね。

俳優の道へと進んだ山田裕貴だが、意外な形でもう一度野球と関わる

野球から俳優の道へと鞍替えし、俳優としての実力を着々とつけていった山田裕貴さんですが、もう一度野球と関わることになります。

2018年8月10日、中日ドラゴンズvsヤクルトスワローズの試合で山田裕貴さんは始球式を務めることになりました。

その時着用したユニフォームの背番号は、かつてプロ野球選手として父が背負った番号と同じ「30番」。感慨深いですよね。。。

画像出典元:Instagram 

この日のために、100球以上投げ込でから始球式に臨んだそうです。山田裕貴さんにとって、この日がいかに特別なものだったかが伺えますよね。

野球の道を断念した山田裕貴さんですが、いつか俳優として始球式という形で野球と関わることを望んでいたそうです。

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投球後は泣きながら、「父を追いかけていたあの頃を思い出しました」と語っていました。




山田裕貴と父の親子関係

二人の関係はどんな感じなのでしょうか?

過去の二人の関係はお互いの生真面目さ故に傍から見たらきごちなく見える

画像出典元:Instagram 

山田裕貴さん本人よると、自分にとって父は遠い存在だったようです。

野球をやっていた小学3年生から中学3年生までは、「父と野球の話は一切できなかった」といいます。

理由は、「野球をやっていると、父がライバルのような感覚になってしまったから」らしいです。

そのため、父とキャッチボールをしたり野球について教えてもらったことが一度もないんだそう。普通の日常会話ですらできなかったようです。

これだけなら暗い話ですが、俳優を志したのはこの時の体験が原体験になっていると山田裕貴さん本人が話していました。

「エンタメ界側に行けば、父に観てもらえるんじゃないか。テレビに出る回数だったら父を超えられるかもしれない。そういう漠然とした色々な思いがあった」

と、俳優を目指した動機について過去のインタビューで語っていました。

おそらく、二人とも生真面目な性格であるがゆえに、このような関係になっていたのかなと思いました。

現在、二人の関係は以前よりも良好になった印象。父は俳優・山田裕貴の大ファンらしい

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上記のような親子関係がずっと続いているのかと思われましたが、父の山田和利さんは俳優としての山田裕貴さんに激ハマりしているそうです(笑)

父・山田和利さんは、山田裕貴さんが出演した

「僕は明日、昨日の君とデートする」

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「二度目の夏、二度と会えない君」

画像出典元:Twitter 

「トモダチゲーム」

画像出典元:Twitter 

といった青春映画を1人で見に行ったんだそうです(笑)

また、同じく山田裕貴さんが出演した、不良達の抗争を描いたドラマ「HIGH&LOW」にも相当ハマっていたようです。

画像出典元:Twitter 

息子が出演しているからとはいえど青春系やヤンキー系作品にハマるあたり、厳格そうな雰囲気に反して父・山田和利さんは、ピュアな内面の持ち主なのかもしれませんね(笑)

山田裕貴さんも、自身のツイッターで以下のような投稿をしています。

画像出典元:Twitter

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二人は、以前よりも腹を割って話せるような関係になったのかもしれないですね。

頑張る息子とそれ陰ながら見守り、時々助言を与える寡黙ないいお父さんという関係なんですかね。




山田裕貴のと父・山田和利の顔の似ている割合は20%位

ここでは、二人の顔がどれくらい似ているのか検証してみましょう。

画像出典元:Instagram

画像出典元: 日刊スポーツ

切れ長の目とキリッとした眉毛が似ているとの声がネットでは多いようです。

目元部分だけが似ているので、似ている割合としては20%くらいでしょうか?

男の子は母親に似るともいわれるので、山田裕貴さんは母親似なのかもしれませんね。

山田裕貴さんの母親の画像がこちら

 画像出典元:Twitter

母親は女優の羽田美智子さんに似ているそうですよ。

画像出典元:Instagram 

一般人ということもあり、母親についての情報は明らかになっていないようです。

ちなみに、山田裕貴さんの家族構成は「父・母・兄・妹」の4人家族です。

妹さんは、山田裕貴さんより2歳年下の1993年3月15日生まれで、名前は山田麻生(まい)さん。

画像出典元:Instagram 

現在は、モデル事務所「STANFORD」に所属しモデルとして活躍しています。

画像出典元:Instagram 

やはり、兄弟だけあって二人の顔は似ていますよね。

世間の声

いかがだったでしょうか?

画像出典元:Twitter

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 山田裕貴さんと父・山田和利さんの今後の関係が気になった人もいるのではないでしょうか?

新しい情報が入り次第随時更新していきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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